2010-06-30 05:01:00
6/29(日)、久々に新潟にキス釣りに行ってまいりました。
しかしなあ、キス釣りが好きで新潟の投げ釣りのHPもやってるくせに、仕事の転勤の関係で東京に住んでるもんで実際に新潟でキス釣りができるのはせいぜい年に1度か2度というこの状況、
年に一度の海外旅行を、「がんばってる自
分へのごほうび♪」として楽しみにしている
東京在住の独身OL(27才)
みたいな気分(長い)ですが、なにか?
さて、そんな年に1度か2度のお楽しみにもかかわらず、必ずしもお天気が味方してくれるとは限らないのが、この趣味の悲しいところ。
この日は会社の先輩のIDさんと2人で出かけたのですが、この日に限って
最近では見られないくらいの、バケツをひっ
くり返したみたいなどしゃ降り♪
日頃の行いが知れますね♪
しかーししかし、新潟県は懐が深いのです。
新潟には、
雨が降っても濡れないで投げ釣りが楽しめ
る、屋根付きの投げ釣り場
があるのです。知ってる人なら、「ああ、あそこか」とピンと来るでしょう。
というわけでそこへ行くことに。
さーて、どうでもいい前フリが長くなりました。
高速で糸魚川まで来ると、それまでの雨が上がったので、屋根付きの釣り場でなくて、糸魚川海水浴場(押上海岸)へとやってきました。


ここで竿を出すのは初めてです。2人とも雨合羽を着用して海岸へ。
海を見ると、うっすらとではありますが、どうも根が広~くあるように見えます。
ジェット天秤をつけて、試しにチョイ投げします。
すると、いきなり10cm級のアイナメちゃんの2点掛け! 大きくなってまた来てね!
お次はどおりゃ~っ!と遠投。4色いっぱいくらいで着水。
しかし、いきなり根にズッポシハマってテーパーラインから先をロスト。
IDさんも1投目から根掛かりでオモリをロスト。なかなか厳しい海岸です。
私はめげずに投げ続けると、今度は10cm級のアイナメちゃんと青ベラちゃんの一荷。 大きくなってまた来てね!
ほどなくまたバケツをひっくり返したみたいな雨模様になってきたので、「屋根付きの投げ釣り場」へ向かうことに。
んで、やって来ました。おそらく新潟県内で唯一の、「屋根付きの投げ釣り場」!


北陸自動車道、親不知ICの下に「親不知ピアパーク」という道の駅があり、その裏手の道を行くと、高速の高架橋下に出られるのです。
そしてやや行くと、海岸正面に大きな岩が見えてきます。

これが投岩(なげいわ)と鬼ケリ岩。左の低いほうが投岩で、右の大きいほうが鬼ケリ岩と呼ばれているようです。
この周辺が、投げ釣りスポットになっているのです。北陸道が屋根となって、雨降りでもほとんど濡れずにすみます。
私はここで釣りをするのは12、3年振り。
しかし、なにせ海岸はご覧の通りのゴロタ石の広がる海岸。当然海底も似たような状況かと思い、ジェット天秤を恐る恐る投げてみます。
ところが、意に反してそれほど根掛かりには悩まされませんでした。かなりの回数キャストを繰り返しましたが、私のオモリのロストは投岩の左方向に投げたときの、ジェット天秤1個だけでした。
サビくと根掛かるかと思い、置き竿にしてしばらくキャストを繰り返すと、ようやく待望のキスちゃんが来てくれました!

その後、鬼ケリ岩の右手の3~4色付近は、まったく根がなくてサビいても大丈夫なことに気がついたので、サビいて釣ることに。
すると、キター!


なんとか2匹追加。IDさんにはベラの大きなお母さんが掛かったものの、残念ながらキスは掛からず。
親不知くんだりまで来てキス3匹(しかも、型も親不知サイズには程遠い)ってのは、普通の人にとっては意味不明感でいっぱいなんだろうけど、こういう変な場所でもキスが釣れるということが証明できたことが、似非投げ釣り伝道師の私としてはウレシイわけなんですよ。
昼を過ぎて雨も上がったので、ピアパークで昼食を食べ、次の釣り場、須沢海岸へ。



須沢海岸も、本日は雨降りの影響で右手のほうは姫川からものすごい泥水が流れ込んでいるので、海岸左手に向かいます。堤防があるので、そのあたりで釣ることに。
それでもさすがに雨降りの後ということもあり、海は薄く濁っている感じ。あ、こういうのを日本古来の表現で「細濁り」(ささにごり)っていうんですか、金田一春彦先生?
ここではIDさんも私も、10cm級のアイナメちゃんの入れ食いを味わいました♪ ウレシクないっチューの! 大きくなって、また来てね?
残念ながら、ここではキスの姿は見られずじまい。ここでタイムアップ。
というわけで、雨の中親不知まで遠征したものの、お持ち帰りはキス3匹だけという結果に終わりました。これはやはり日頃の行いの表れですか?
IDさんには雨の中おつきあいいただきありがとうございました。これに懲りずまたつき合っていただけたら幸いです。
OWARI
釣り場の解説はこちら : B型人間的新潟の投げ釣り
しかしなあ、キス釣りが好きで新潟の投げ釣りのHPもやってるくせに、仕事の転勤の関係で東京に住んでるもんで実際に新潟でキス釣りができるのはせいぜい年に1度か2度というこの状況、
年に一度の海外旅行を、「がんばってる自
分へのごほうび♪」として楽しみにしている
東京在住の独身OL(27才)
みたいな気分(長い)ですが、なにか?
さて、そんな年に1度か2度のお楽しみにもかかわらず、必ずしもお天気が味方してくれるとは限らないのが、この趣味の悲しいところ。
この日は会社の先輩のIDさんと2人で出かけたのですが、この日に限って
最近では見られないくらいの、バケツをひっ
くり返したみたいなどしゃ降り♪
日頃の行いが知れますね♪
しかーししかし、新潟県は懐が深いのです。
新潟には、
雨が降っても濡れないで投げ釣りが楽しめ
る、屋根付きの投げ釣り場
があるのです。知ってる人なら、「ああ、あそこか」とピンと来るでしょう。
というわけでそこへ行くことに。
さーて、どうでもいい前フリが長くなりました。
高速で糸魚川まで来ると、それまでの雨が上がったので、屋根付きの釣り場でなくて、糸魚川海水浴場(押上海岸)へとやってきました。


ここで竿を出すのは初めてです。2人とも雨合羽を着用して海岸へ。
海を見ると、うっすらとではありますが、どうも根が広~くあるように見えます。
ジェット天秤をつけて、試しにチョイ投げします。
すると、いきなり10cm級のアイナメちゃんの2点掛け! 大きくなってまた来てね!
お次はどおりゃ~っ!と遠投。4色いっぱいくらいで着水。
しかし、いきなり根にズッポシハマってテーパーラインから先をロスト。
IDさんも1投目から根掛かりでオモリをロスト。なかなか厳しい海岸です。
私はめげずに投げ続けると、今度は10cm級のアイナメちゃんと青ベラちゃんの一荷。 大きくなってまた来てね!
ほどなくまたバケツをひっくり返したみたいな雨模様になってきたので、「屋根付きの投げ釣り場」へ向かうことに。
んで、やって来ました。おそらく新潟県内で唯一の、「屋根付きの投げ釣り場」!


北陸自動車道、親不知ICの下に「親不知ピアパーク」という道の駅があり、その裏手の道を行くと、高速の高架橋下に出られるのです。
そしてやや行くと、海岸正面に大きな岩が見えてきます。

これが投岩(なげいわ)と鬼ケリ岩。左の低いほうが投岩で、右の大きいほうが鬼ケリ岩と呼ばれているようです。
この周辺が、投げ釣りスポットになっているのです。北陸道が屋根となって、雨降りでもほとんど濡れずにすみます。
私はここで釣りをするのは12、3年振り。
しかし、なにせ海岸はご覧の通りのゴロタ石の広がる海岸。当然海底も似たような状況かと思い、ジェット天秤を恐る恐る投げてみます。
ところが、意に反してそれほど根掛かりには悩まされませんでした。かなりの回数キャストを繰り返しましたが、私のオモリのロストは投岩の左方向に投げたときの、ジェット天秤1個だけでした。
サビくと根掛かるかと思い、置き竿にしてしばらくキャストを繰り返すと、ようやく待望のキスちゃんが来てくれました!

その後、鬼ケリ岩の右手の3~4色付近は、まったく根がなくてサビいても大丈夫なことに気がついたので、サビいて釣ることに。
すると、キター!


なんとか2匹追加。IDさんにはベラの大きなお母さんが掛かったものの、残念ながらキスは掛からず。
親不知くんだりまで来てキス3匹(しかも、型も親不知サイズには程遠い)ってのは、普通の人にとっては意味不明感でいっぱいなんだろうけど、こういう変な場所でもキスが釣れるということが証明できたことが、似非投げ釣り伝道師の私としてはウレシイわけなんですよ。
昼を過ぎて雨も上がったので、ピアパークで昼食を食べ、次の釣り場、須沢海岸へ。



須沢海岸も、本日は雨降りの影響で右手のほうは姫川からものすごい泥水が流れ込んでいるので、海岸左手に向かいます。堤防があるので、そのあたりで釣ることに。
それでもさすがに雨降りの後ということもあり、海は薄く濁っている感じ。あ、こういうのを日本古来の表現で「細濁り」(ささにごり)っていうんですか、金田一春彦先生?
ここではIDさんも私も、10cm級のアイナメちゃんの入れ食いを味わいました♪ ウレシクないっチューの! 大きくなって、また来てね?
残念ながら、ここではキスの姿は見られずじまい。ここでタイムアップ。
というわけで、雨の中親不知まで遠征したものの、お持ち帰りはキス3匹だけという結果に終わりました。これはやはり日頃の行いの表れですか?
IDさんには雨の中おつきあいいただきありがとうございました。これに懲りずまたつき合っていただけたら幸いです。
OWARI
釣り場の解説はこちら : B型人間的新潟の投げ釣り
「日本は何位なの?」
- ジャンル : 日記
- テーマ : 日記というか、雑記というか…
2010-06-25 20:13:50
日本はデンマークに勝って決勝T進出。いや~素晴らしい。近頃こんなに胸のスッとするようなことはありません。
んで、今日の夕食時の会話。
小三の娘(以下娘)「ねえねえ、今日本は(ワールドカップで)何位なの?」
私「ワールドカップはね、32の国が出て戦って、とりあえず半分の16の国が残る戦いをしていてね、日本は今日勝ってその16チームに残ったんだよ」
娘「(すごい!という顔をしながら)へぇ~。 で、日本は次はどことやるの?」
私「パラグアイ」
娘「え?」
私「パラグアイ」
娘「晴れ具合い?」
私「ちがう。 パ・ラ・グ・ア・イ」
娘「腹具合い?」
私「(面白ぇじゃねえか)ちがうってば、 パ・ラ・グ・ア・イ」
娘「パラグアイ?」
娘よ、日本は4位を目指して頑張っているのだ。
岡田監督、日本代表の皆さん、16位ってのはちょっと物足りないので、せめて一桁の順位を娘に教えてやれるように次もお願いします。
んで、今日の夕食時の会話。
小三の娘(以下娘)「ねえねえ、今日本は(ワールドカップで)何位なの?」
私「ワールドカップはね、32の国が出て戦って、とりあえず半分の16の国が残る戦いをしていてね、日本は今日勝ってその16チームに残ったんだよ」
娘「(すごい!という顔をしながら)へぇ~。 で、日本は次はどことやるの?」
私「パラグアイ」
娘「え?」
私「パラグアイ」
娘「晴れ具合い?」
私「ちがう。 パ・ラ・グ・ア・イ」
娘「腹具合い?」
私「(面白ぇじゃねえか)ちがうってば、 パ・ラ・グ・ア・イ」
娘「パラグアイ?」
娘よ、日本は4位を目指して頑張っているのだ。
岡田監督、日本代表の皆さん、16位ってのはちょっと物足りないので、せめて一桁の順位を娘に教えてやれるように次もお願いします。
2010-06-17 05:10:00
メキシコ湾の石油流出事故は、解決までにはまだだいぶ時間がかかりそうですが、一日も早く事態の収拾を図ってもらいたいものです。
さて、今日はそんな石油にちなんだ話をしたいと思います。
ホタテ貝のマークでおなじみのシェル石油(日本では昭和シェル石油)。

この会社のマークが 「なぜ貝なのか?」という由来をお話ししたいと思います。
かなり長くなってしまいましたが、よろしければおつきあいください。
シェル石油の創始者であるマーカス・サミュエルは、1853年にロンドンのユダヤ人家庭に生まれました。
彼の父親はロンドンの裏通りを、雑貨を積んだ荷車を押して歩く行商人で、マーカスは11人兄弟の10番目の子供。
マーカスは幼い頃から利発でユダヤ人学校へ通っていましたが、学校にはなじみませんでした。
そこで父親はマーカスが19歳のとき、彼を商売の修業のためにアジアへ一人旅をさせることにします。
父親は乏しい収入の中から、息子に船の三等切符を買って与えました。
1872年、マーカスは一人でロンドンを旅立ちます。行き先は彼の裁量に任されていました。
船はインド、シンガポール、フィリピン、タイ、香港、中国と寄港しましたが、マーカスは最後の訪問港である横浜で降ります。
所持金は5ポンド。今のお金の価値でいえば5万円ほど。
当時の日本はまだ開国したばかりで、東京・横浜近辺でも外国人の数は数百人に過ぎなかったでしょう。
マーカスには頼れる身寄りや友人もなく、資金を借りられるような信用があるわけもありません。
19歳の青年にとっては、前途を思うとさぞ心細く、不安な気持ちであったでしょう。
寄る辺もないマーカスは、横浜をあてどもなく歩き回る日々でした。
そしてあるとき、湘南の海にたどり着きます。
つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごしました。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日たくさんの漁師が浜にやってきて、波打ち際で砂を掘っている光景でした。
よく観察していると、彼らは潮が引いたあとの砂の中の貝を獲っていることがわかりました。

(2010年4月の、横浜の潮干狩りの様子)
マーカスはある日、貝を獲っていた漁師のあとをつけます。
すると、貝は食用に供されていましたが、貝殻は捨てられてしまうことを発見します。
このときマーカスにある発想がひらめきました。
マーカスはほとんどタダで貝殻を集め、ボタンやカフスボタン、子供用のおもちゃのシャベルや玩具を作り始めます。
また、大型の貝殻の内側に漆を塗って飾り物としたり、さまざまな美しい貝を施した細工物や、きれいな貝殻をちりばめた小箱を作りました。
ただ、これらの多くは、当時の日本にすでにあった民芸品を真似たものに過ぎませんでした。
マーカスはこのようにして作った品々を、ロンドンの父親の元へ送ります。
そして父親はこれらの品物を手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩きました。
しばらくして父親から連絡がきます。
ボタンや子供用のおもちゃや貝の名札は確かに美しい。だが、買い手が見つからない。
しかし、黒い漆塗りの、東洋の異国情緒がこもった小箱はきわめて反応がよかった、と。
その小箱は、ビクトリア調インテリアの居間にあるピアノやコーヒーテーブルの上に置いて、葉巻やタバコ、小物などを収めるのにおあつらえむきだったのです。
やがて、マーカスが遠い日本から送る商品が大当たりしたため、父親は手押し車の引き売りをやめて、東洋からの輸入商品を売る小さな一軒の商店を開きました。そしてその店は、ほどなく大きな専門店に成長しました。
(このあたりの話は創業時の逸話に過ぎず、父親はすでに1833年には店を開業していたとの話もあります)
一方マーカスは23才で、横浜でマーカス・サミュエル商会を創業します。昭和シェル石油HPの会社案内の沿革は、サミュエル商会の設立から始まります(こちらのページ)。
マーカスは日本でさまざまな商品を作ったり買い付けたりして雑貨をイギリスへ輸出していましたが、それだけでは満足しませんでした。マーカスはまったく新しい分野にこそ大きな可能性があると信じていたのです。
当時、世界では新しい燃料である石油時代が幕を開けつつありました。
アメリカではロックフェラーが石油事業に取り組み、ロシアはロシア国内で油田を開発していました。
日本といえば暖房のための燃料として、炭しか使っていませんでした。
マーカスは軽油に関心を向けます。軽油を灯油に加工し、照明・暖房用として日本と中国向けに売ることを思いつきます。
この頃すでに、マーカスは商売でかなりのまとまった資金を蓄えていました。彼は、ロシアから石油を買い付けることにします。
しかし問題がありました。
当時、石油を船で運ぶのには5ガロン缶が使われていましたが、船主たちは船が汚れるので石油を運ぶのを嫌がっていました。船を洗うのに手数と費用がかかったからです。加えて、5ガロン缶を縄で結ばねばならなかったのも手間でした。
そこでマーカスは、船全体が一つの浮かぶ油槽である石油運搬用の専門船をつくることを思いつきます。
彼は造船の専門家を招いて、設計図を作らせたうえで、イギリスの造船所に発注しました。
こうして、世界最初の「石油タンカー」が建造されました。
さて、最初のタンカーが完成するとき、マーカスは船をなんと命名するか?思案しました。
船名の名付けにはルールが一切なく、何でも自由に付けることが可能だったのです。
それなら、青年時代に日本にまでたどり着いて、横浜の海辺に出て貝を拾った自分の商売の黎明期を記念にしようと思いました。
マーカスはタンカーの一号船を、「ミュレックス(アッキ貝)」と命名しましたアッキ貝は日本の海辺で採れる、もっとも代表的な貝でした。
マーカス自身、このことについて、
「自分は貧しいユダヤ少年として、日本の海岸で、一人で貝を拾っていた過去を決して忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」
と書き残しています。
第一号船は、恐れられていたように火災が生じることもなく、他の事故を起こすこともなく、全世界を石油を腹いっぱい積んで順調に走り回りました。
こうして、横浜がシェル石油の発祥の地となったのです。
石油に目をつけたマーカスにとって、望外な成功を導き寄せることになったのは、時代が石油を照明や暖房よりも、はるかに多くの用途のために必要とするようになったからです。マーカスには、先見の明がありました。だから新しい時代がマーカスに微笑んだのです。
その後もマーカスは精力的に事業を拡大していきます。
「ミュレックス」が成功したのに励まされて、八隻のタンカーを次々と発注して建造しました。
マーカスの手によって、「石油タンカー産業」が出現したのです。
マーカスは社名を、「ライジング・サン・ペトロリュウム」(日出る石油)会社と改めました。日本が日出る(いづる)国であることからとったものです。
こうして、横浜の海岸を新しい仕事を求めてさまよった孤独なユダヤ人少年が、世界的な大富豪になりました。
ついにマーカスはヨーロッパとアジアの石油市場を制したのです。
ところがです。
マーカスの石油事業が成功すればするほど、イギリス人のあいだから、ユダヤ人が石油産業で君臨していることに反発が高まってきてしまいました。
追いつめられたマーカスは、やむなくオランダとイギリスのコングロマリットに会社を売却する決断をします。
マーカスは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出しました。
その一つは、少数株主といえども、必ずマーカスの血をひいた者が、役員として会社に入ること。
そしてもう一つは、発祥の歴史の象徴として、貝殻のマークを永遠に用いなければならない、というものでした。
それで、シェル石油の営業所には、今日でも必ず貝殻のマークが掲げられているのです。
こうして、マーカスが築いた会社は「ロイヤル・ダッチ・シェル」という名前に改められました。
ロイヤル・ダッチ・シェルは2010年の現在、石油業界の売り上げ規模で米エクソンモービルに次ぎ、世界2位の会社となっています。
また、今日でもロイヤル・ダッチ・シェル社のタンカーには、貝の船名がつけられているそうです。
その後、マーカスはイギリスへ戻ると名士として迎えられ、1902年にはロンドン市長になりました。
シェル石油の貝のマークには、このような由来があるそうです。
シェル石油の貝のマークを見たら、たまには思い出してください。

この貝は、貧しくも冒険心にあふれたイギリスの若者が、青春の日に湘南の海で拾った貝が由来であるということを。
シェル(SHELL)石油の貝のマークの話-END
~参考文献~

ユダヤ商法
B型人間の本棚
さて、今日はそんな石油にちなんだ話をしたいと思います。
ホタテ貝のマークでおなじみのシェル石油(日本では昭和シェル石油)。

この会社のマークが 「なぜ貝なのか?」という由来をお話ししたいと思います。
かなり長くなってしまいましたが、よろしければおつきあいください。
シェル石油の創始者であるマーカス・サミュエルは、1853年にロンドンのユダヤ人家庭に生まれました。
彼の父親はロンドンの裏通りを、雑貨を積んだ荷車を押して歩く行商人で、マーカスは11人兄弟の10番目の子供。
マーカスは幼い頃から利発でユダヤ人学校へ通っていましたが、学校にはなじみませんでした。
そこで父親はマーカスが19歳のとき、彼を商売の修業のためにアジアへ一人旅をさせることにします。
父親は乏しい収入の中から、息子に船の三等切符を買って与えました。
1872年、マーカスは一人でロンドンを旅立ちます。行き先は彼の裁量に任されていました。
船はインド、シンガポール、フィリピン、タイ、香港、中国と寄港しましたが、マーカスは最後の訪問港である横浜で降ります。
所持金は5ポンド。今のお金の価値でいえば5万円ほど。
当時の日本はまだ開国したばかりで、東京・横浜近辺でも外国人の数は数百人に過ぎなかったでしょう。
マーカスには頼れる身寄りや友人もなく、資金を借りられるような信用があるわけもありません。
19歳の青年にとっては、前途を思うとさぞ心細く、不安な気持ちであったでしょう。
寄る辺もないマーカスは、横浜をあてどもなく歩き回る日々でした。
そしてあるとき、湘南の海にたどり着きます。
つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごしました。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日たくさんの漁師が浜にやってきて、波打ち際で砂を掘っている光景でした。
よく観察していると、彼らは潮が引いたあとの砂の中の貝を獲っていることがわかりました。

(2010年4月の、横浜の潮干狩りの様子)
マーカスはある日、貝を獲っていた漁師のあとをつけます。
すると、貝は食用に供されていましたが、貝殻は捨てられてしまうことを発見します。
このときマーカスにある発想がひらめきました。
マーカスはほとんどタダで貝殻を集め、ボタンやカフスボタン、子供用のおもちゃのシャベルや玩具を作り始めます。
また、大型の貝殻の内側に漆を塗って飾り物としたり、さまざまな美しい貝を施した細工物や、きれいな貝殻をちりばめた小箱を作りました。
ただ、これらの多くは、当時の日本にすでにあった民芸品を真似たものに過ぎませんでした。
マーカスはこのようにして作った品々を、ロンドンの父親の元へ送ります。
そして父親はこれらの品物を手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩きました。
しばらくして父親から連絡がきます。
ボタンや子供用のおもちゃや貝の名札は確かに美しい。だが、買い手が見つからない。
しかし、黒い漆塗りの、東洋の異国情緒がこもった小箱はきわめて反応がよかった、と。
その小箱は、ビクトリア調インテリアの居間にあるピアノやコーヒーテーブルの上に置いて、葉巻やタバコ、小物などを収めるのにおあつらえむきだったのです。
やがて、マーカスが遠い日本から送る商品が大当たりしたため、父親は手押し車の引き売りをやめて、東洋からの輸入商品を売る小さな一軒の商店を開きました。そしてその店は、ほどなく大きな専門店に成長しました。
(このあたりの話は創業時の逸話に過ぎず、父親はすでに1833年には店を開業していたとの話もあります)
一方マーカスは23才で、横浜でマーカス・サミュエル商会を創業します。昭和シェル石油HPの会社案内の沿革は、サミュエル商会の設立から始まります(こちらのページ)。
マーカスは日本でさまざまな商品を作ったり買い付けたりして雑貨をイギリスへ輸出していましたが、それだけでは満足しませんでした。マーカスはまったく新しい分野にこそ大きな可能性があると信じていたのです。
当時、世界では新しい燃料である石油時代が幕を開けつつありました。
アメリカではロックフェラーが石油事業に取り組み、ロシアはロシア国内で油田を開発していました。
日本といえば暖房のための燃料として、炭しか使っていませんでした。
マーカスは軽油に関心を向けます。軽油を灯油に加工し、照明・暖房用として日本と中国向けに売ることを思いつきます。
この頃すでに、マーカスは商売でかなりのまとまった資金を蓄えていました。彼は、ロシアから石油を買い付けることにします。
しかし問題がありました。
当時、石油を船で運ぶのには5ガロン缶が使われていましたが、船主たちは船が汚れるので石油を運ぶのを嫌がっていました。船を洗うのに手数と費用がかかったからです。加えて、5ガロン缶を縄で結ばねばならなかったのも手間でした。
そこでマーカスは、船全体が一つの浮かぶ油槽である石油運搬用の専門船をつくることを思いつきます。
彼は造船の専門家を招いて、設計図を作らせたうえで、イギリスの造船所に発注しました。
こうして、世界最初の「石油タンカー」が建造されました。
さて、最初のタンカーが完成するとき、マーカスは船をなんと命名するか?思案しました。
船名の名付けにはルールが一切なく、何でも自由に付けることが可能だったのです。
それなら、青年時代に日本にまでたどり着いて、横浜の海辺に出て貝を拾った自分の商売の黎明期を記念にしようと思いました。
マーカスはタンカーの一号船を、「ミュレックス(アッキ貝)」と命名しましたアッキ貝は日本の海辺で採れる、もっとも代表的な貝でした。
マーカス自身、このことについて、
「自分は貧しいユダヤ少年として、日本の海岸で、一人で貝を拾っていた過去を決して忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」
と書き残しています。
第一号船は、恐れられていたように火災が生じることもなく、他の事故を起こすこともなく、全世界を石油を腹いっぱい積んで順調に走り回りました。
こうして、横浜がシェル石油の発祥の地となったのです。
石油に目をつけたマーカスにとって、望外な成功を導き寄せることになったのは、時代が石油を照明や暖房よりも、はるかに多くの用途のために必要とするようになったからです。マーカスには、先見の明がありました。だから新しい時代がマーカスに微笑んだのです。
その後もマーカスは精力的に事業を拡大していきます。
「ミュレックス」が成功したのに励まされて、八隻のタンカーを次々と発注して建造しました。
マーカスの手によって、「石油タンカー産業」が出現したのです。
マーカスは社名を、「ライジング・サン・ペトロリュウム」(日出る石油)会社と改めました。日本が日出る(いづる)国であることからとったものです。
こうして、横浜の海岸を新しい仕事を求めてさまよった孤独なユダヤ人少年が、世界的な大富豪になりました。
ついにマーカスはヨーロッパとアジアの石油市場を制したのです。
ところがです。
マーカスの石油事業が成功すればするほど、イギリス人のあいだから、ユダヤ人が石油産業で君臨していることに反発が高まってきてしまいました。
追いつめられたマーカスは、やむなくオランダとイギリスのコングロマリットに会社を売却する決断をします。
マーカスは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出しました。
その一つは、少数株主といえども、必ずマーカスの血をひいた者が、役員として会社に入ること。
そしてもう一つは、発祥の歴史の象徴として、貝殻のマークを永遠に用いなければならない、というものでした。
それで、シェル石油の営業所には、今日でも必ず貝殻のマークが掲げられているのです。
こうして、マーカスが築いた会社は「ロイヤル・ダッチ・シェル」という名前に改められました。
ロイヤル・ダッチ・シェルは2010年の現在、石油業界の売り上げ規模で米エクソンモービルに次ぎ、世界2位の会社となっています。
また、今日でもロイヤル・ダッチ・シェル社のタンカーには、貝の船名がつけられているそうです。
その後、マーカスはイギリスへ戻ると名士として迎えられ、1902年にはロンドン市長になりました。
シェル石油の貝のマークには、このような由来があるそうです。
シェル石油の貝のマークを見たら、たまには思い出してください。

この貝は、貧しくも冒険心にあふれたイギリスの若者が、青春の日に湘南の海で拾った貝が由来であるということを。
シェル(SHELL)石油の貝のマークの話-END
~参考文献~

ユダヤ商法
B型人間の本棚
2010-06-12 00:01:00
先日の会社帰り、自宅最寄り駅の地下にある酒屋に立ち寄りました。
すると、珍しく芋焼酎の試飲をやっています。
係のオバサマに、「いかがですか?」
と声をかけられたので、いただいてみることに。
3種類あります。
1本目。
う~ん、こりゃ普通だな。ホントに普通。「さつま白波」のほうが、むしろうまいかも。
2本目。
う~~~ん; これはなんか薄いな。女性にはウケるかも。でも、脂ぎったオヤジにはもの足りない。
そして3本目。
「・・・ (むむむむむ!?)」
これは、今やプレミアム焼酎となってしまった、「佐藤の黒麹
」と同じ味がするではないか。
「これ、佐藤の黒と似てますね」と私が言うと、係のオバサマが
「(佐藤という焼酎は知らない様子で) ああ、そうですか。これは霧島のほうのお酒で、水がいいんですよ」
・・・ やっぱり。
佐藤という焼酎も、霧島山系の水で仕込んでいるのだ。だから似たような風味になるのかもしれない。
オレの舌も、たまには当たるじゃないか。
その、今回飲んだ鹿児島の芋焼酎はこちら!

蒼天の煌 白ラベル(栗小金)720ml 25°
「そうてんのきらめき」と読みます。値段的には「さつま白波」の倍はしますけど、それだけの価値はあるでしょう。これは私が保証してもいい。
そして、佐藤の黒麹に比べると、価格的には半分以下。これもまた妥当な線ではないかと思います。やっぱり佐藤の黒はもう一段まろやかさ、旨さが違いますので。
焼酎好きの方、一度試してソンはないと思いますよ。
すると、珍しく芋焼酎の試飲をやっています。
係のオバサマに、「いかがですか?」
と声をかけられたので、いただいてみることに。
3種類あります。
1本目。
う~ん、こりゃ普通だな。ホントに普通。「さつま白波」のほうが、むしろうまいかも。
2本目。
う~~~ん; これはなんか薄いな。女性にはウケるかも。でも、脂ぎったオヤジにはもの足りない。
そして3本目。
「・・・ (むむむむむ!?)」
これは、今やプレミアム焼酎となってしまった、「佐藤の黒麹
「これ、佐藤の黒と似てますね」と私が言うと、係のオバサマが
「(佐藤という焼酎は知らない様子で) ああ、そうですか。これは霧島のほうのお酒で、水がいいんですよ」
・・・ やっぱり。
佐藤という焼酎も、霧島山系の水で仕込んでいるのだ。だから似たような風味になるのかもしれない。
オレの舌も、たまには当たるじゃないか。
その、今回飲んだ鹿児島の芋焼酎はこちら!

蒼天の煌 白ラベル(栗小金)720ml 25°
「そうてんのきらめき」と読みます。値段的には「さつま白波」の倍はしますけど、それだけの価値はあるでしょう。これは私が保証してもいい。
そして、佐藤の黒麹に比べると、価格的には半分以下。これもまた妥当な線ではないかと思います。やっぱり佐藤の黒はもう一段まろやかさ、旨さが違いますので。
焼酎好きの方、一度試してソンはないと思いますよ。